横浜のホテルキャメロット ジャパンの2階にある桃花苑で、詩集出版のお祝いの会が行われた。
詩人の稲川方人さん、吉田文憲さんのお二人が指導をされている横浜朝日カルチャーセンター「現代詩講座」を受講されている方たちのなかの3人の方が詩集を上梓されそのお祝いの会である。
富岡悦子さん(詩集『ベルリン詩篇』思潮社刊)、河口夏美さん(詩集『雪ひとひら、ひとひらが、妹のように思える日よ』書肆子午線刊)、立木勲さん(
詩集『ヨンとふたりで』ふらんす堂刊)の3人の方々である。
指導をされているお二人の詩人の方のご挨拶と、立木勲さんのご挨拶を紹介したい。
吉田文憲さん。
三人三様に詩集の表情がちがう、際だってそれが印象的でした。立木さんの詩集についていえば、「あとがき」が率直で感動的でした。
韓国からひとりやってきて、私と一緒になったヨンヒ(池英姫)
との日々の営みの中から、この詩集は生まれた。
私は、ヨンヒの言葉を頼りにヨンヒの姿を追い、その軋みを知
り、楽しみを分かち、時に慰められながら、日々の中にふたり
の繋がりを探し求めて来た。
詩は、ヨンヒの言葉の向こうに、想いの奥に、
掘り起こされ、形にされることを待っていた。
そこにヨンヒがいたことに深く感謝する。
こういう美しいあとがきは読んだ記憶がないです。素晴らしいと思います。詩を一篇あげるとすれば、
あなたが繋がりたい時は
僕の肩に乗って話せばいい
僕はそういうあなたの中に
僕自身の言葉を見つける
そして時々はあなたの肩に乗り
あなたの生まれた韓国を
遠くに見ながら考えることもあるのだから
こういう距離感というのかな、そこを思いが渡っていく、そこに詩があると思います。
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稲川方人さん。
10年間にわたって詩の講座をやってきました。
横浜の詩の講座のそれぞれの関係のなかで3人の方たちの詩集は生まれたということを思います。
そのことに感動します。
さきほど冒頭で3人の方たちの詩集がゆかりの方によって朗読されましたけど、姿勢を正して聞かせて貰いました。とても感動します。
それは人と人との関係のなかで、場と人との関係のなかで言葉が生まれて詩集というかたち、ものが生まれる。
そのことを朗読された方が声のなかできちんと捉えている、ないがしろにしていない。
あらためてこの詩の講座を10数年、長い間やっておりますけど、気持を新たにして詩を書く。
詩を書くということは、今この世界に生きている自分の存在、生のかたちを他者に向けて提示していく作業です。
今回の作品も方々の詩集においてもそれぞれにその人がそれぞれが生きている場所、どんな状態で存在しているか、それがきちんと詩集のなかに出ている、それは今かならずしもわれわれ人間はいい状態で特に日本人はいい状態で生きているとはとても言え得ない、そのなかで我々は詩を書かなければいけない、その中で自分の生存、生を他者に向けて提示していかなくてはいけないと、厳しいなかで文学を、詩を書かなければならないわけですが、そういった姿勢、すっと背筋をたてた姿勢がこの3冊の詩集のなかにはきちんと表れています。
すこし余計なことを言いますと、横浜という町は遠景としてゆかりがありまして、僕は東京の西の端っこに住んでまして横浜まで来るのに2時間くらかかるのですが今日は早朝から家をでまして、菊名、横浜、山手、磯子という割合ともう60年近い前の風景が僕のなかにあるのですが、ちょっと久しぶりに山手の町を歩いてきました。
山があって崖があって住宅地があって、横浜の人はよく知っていると思うのですが、ところが、50年ちかくまえ1960年の少年だったころの僕が見た風景、横浜の人々、町の気配、人々の声、そういったものがすっかり消えてしまった、あの山手の町がなにか生きてるんだろうかと、この町は終るんじゃないという感じが歩いてきてずっとして、涙を流しながら歩いて来ました。
何かの大きな力で、ある町が、人々の生きていた場所が消えていく、奪われていく、そういう状況を僕たちは目の当たりにしていると思うのです。
それを踏まえて文学をやらなければいけない、詩を書いていかなければいけない、その覚悟みたいなものをこの3冊の詩集にきちんと感じることができます。
それぞれの立ち位置がちがい、書いている詩のエモーションは違い、一律な言い方はできませんけれど、詩を書いた当人が生きている場所への覚悟を感じることができる3冊の詩集でした。
この横浜の詩の講座がつづく限り、文学をやるその時の背筋の覚悟は何なのか、吉田(文憲)さんも僕も皆さんとともに発見していきたいとおもっております。
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立木勲さん
実は僕はいい夫じゃなかった。出世というとあれですが、会社のなかでいろいろあって出世のラインからはずれていくなかで、言葉も失うし、自分自身がどういう人間かというのも全然分からなくなりそういう状態が10ヶ月くらい続きました。「オレは何のために生きてきたんだろう」とか、「これからどうして生きていくのだろう」とかずっと考えていて、たまたま鞄のなかに詩の本があって、そこに宮沢賢治の「永訣の朝」を読んで、詩を書こうと思いました。それが去年の8月31日です。いままで会社のなかでずうっと押さえていて、効率だとか生産性だとか、それから曖昧な言葉はダメだとか、てきぱきしないのはダメだとか、そういう中でずっと生きてきたのですが、ああ、だったら詩を書こうと思いました。去年の9月から少しずつ手帖に詩を書きはじめました。僕の幸運のまず一番は「企業社会のなかで挫折をしたということ」2番目の幸運は、9月に詩を書きはじめて10月にこの朝日カルチャーの詩の教室で稲川先生、吉田先生、皆さんとお会いできたこと、大変厳しく指導していただいたと僕はおもってます。で、それが無かったら多分詩はできなかったしこうして詩集もできなかったと思ってます。3番目の幸運は、じゃあ自分って何なんだろうかって確かめようとしたときに、そこにカミさんのヨンがいた、振り返ったらそこにヨンがいたんで、僕は言葉を取り戻すというタイトルの詩を書きましたけれど、そのなかに言葉を作っていこうと思いました。詩をつくるなかで僕自身を回復していく、癒しのプロセスだと思っています。僕にとっての詩は、自分を回復していくということと、カミさんとのなかで新しい絆を発見していくこと、それを形にしていったということだと思っています。そのうちに詩を書く自分はどういう自分だろうとか思うようになり、いろんな詩論とか読んだりとか、村上春樹さんが河合隼雄さんと対談しているのを何回も繰り返して読んだんですけど、その中で、村上春樹が自分の欠けているところを小説のなかで作っていくんだと言っていて、ああ、それは同じかなとど思いながら詩をつくる自分はどういう自分かということをいろいろと考えています。で、詩集をつくってどうだったかというと、僕の詩は最後につながりを求めているんだけど、できるかどうか分からなくて胸の奥に沈んでいる、そのように最後の詩は終ってます。詩集をつくって、詩人の方々、高校大学の同級生などいろんな方に送りました。すると思わぬ形でいろんな反応があり、「ああ、この詩集に出会って良かった」とか、多くはないですが、反応というか手応えをいただきました。それで詩集をつくって本当に良かったなあ、と思ってます。
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今日の会には「ヨンとふたりで」のヨンこと奥さまのヨンヒ(池英姫)さんも出席されていてヨンヒさんが描かれた装画についてお話くださった。ヨンヒさんの妹さんのために描かれたものを、装画として用いたということであるが、この装画はこの詩集にはなくてはならないものである。
ヨンヒさんと。
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ふらんす堂では、この詩の講座の方々の詩集をこれまでずいぶんと刊行させていただいている。その度に出版のお祝いの会にお声をかけていただき参加させて貰っている。
いつも思うのは、本当に気持の良い会である、ということ。
人と人との関係のなかで詩集は生まれる。
稲川さんの言葉をもう一度記しておきたい。