深見けん二
スペシャルインタビュー2014.10.16

 

深見けん二 スペシャルインタビュー

俳句を始めることは句会に参加することだった

 

〇ここに平成14年の「俳句研究」の7月号から12月号の6回にわたって連載された深見先生の「わたしの昭和俳句」というのがあるんですけれども、これを読みますと、俳人深見けん二が出来上がるまでというのがすごく詳細に書かれているものだなあと思いました。戦前・戦中・戦後にわたってどういう状況のもとにどういう出会いがあって今日があるかということを、主に高濱虚子との出会いから書き起こされていると思います。読んでいくと、虚子を中心とした句会の、「ホトトギス」の歴史にもなっているなあと思いました。これを読んで思いましたのは、深見先生にとって、俳人との交流ということは、すなわち句会の場であった。そういうことから先生の俳句の核となるものは、句会をおいては考えられないということでした。今日は先生に、先生を形作った「句会」を中心にお話いただきたいと思います。

先生にとって俳句を始めることはすなわち句会に参加される、ということだと考えてよろしいですか。

*まあ色々なやり方がありますけれども、たまたま母の友人の幸喜美さんという方のご縁で、俳句をやるなら虚子先生のところがいいでしょうと言われて、何の当てもなしに出たのが「わたしの昭和俳句」にも書きました昭和16年の10月の句会ですね。「大崎会」と言いましてね。虚子先生の指導する句会でした。虚子先生の会っていうのはそんなに人数がたくさんいないんですよ。まあ、20名足らずの句会で、若い人は私しかいなかったと思います。そこで始めました。でもあの頃は戦争中で、9月に高等学校が半年短縮されて2年半で卒業になってね、それで大学に入りました。17年の10月、その後に伝統的な「草樹会」という水原秋櫻子や山口青邨のおふたり方が始められた会にも出るようになったわけです。これは非常に伝統的な句会で、青邨、富安風生がおられ、あるいは秋櫻子がおられた時期もありました。そして私の頃には京極杞陽とか、吉井莫生とか、佐藤漾人とか。今はあまり皆さん知らないかもしれませんが、有数な俳人がたくさんおられた。

 

〇山口誓子とか中村草田男も?

*私の行った頃にはもういなかったのですが、以前おられました。この「草樹会」はよく学生の会だと思われているんだけどそうではなくて、東大の卒業生が主体なんです。

 

〇先生はその「草樹会」にお入りになられた時はまだ学生でいらっしゃったんですか?

*学生ですよね。大学です。私以外にも、まああとは一人いましたけど、殆ど私だけだったので、皆さん可愛がって下さいました。風生先生が披講される時もあり、その句会で私の句が虚子選に三句入ったんです。その選句用紙を披講のあと、君にあげるよと言われ、いただいたのが印象的です。風生先生は本名が謙次で、私の本名は謙二なんですよ。

 

〇はあ! じゃあ一層の親近感を覚えて。

*まあ風生先生とはそんなに深いお付き合いはできなかったけども、その弟子が清崎敏郎さんですからね。清崎さんとは長いお付き合いをさせていただきました。もともと「若葉」の風生先生と「夏草」の青邨先生が非常に仲が良かった。それで門下の方もそういう形で、清崎さんとは大変いい関係をもつことができ、そういうこともあって今も「若葉」出身の西村和子さんや行方克巳さんとは、まあ親戚のような気持でお付き合いしていただいております。

 

〇そういうご縁に繫がっているっていうことなんですね。特に「草樹会」で印象的だった俳人の方っていらっしゃいましたか?

*やっぱりその頃は、もちろん青邨先生がおられたわけですし、それから風生先生……、まあ一人一人が大変な作家でしたね。福田蓼汀さんとも一緒でしたね。福田蓼汀、それから京極杞陽辺りが若手のホープ、若手って言っちゃあおかしいけども。杞陽さんは、まだ虚子に会ってからほんの7、8年くらいだけども、特異な句を作りましたからね。〈香水や時折キツとなる婦人〉とか〈都踊はヨーイヤサほほゑまし〉とか、独特の句を作られました。家柄のよろしい境遇の方でもあったからでしょうけども、優しいというか、とても親しく話して下さったんですね。だから、青邨先生以外では京極杞陽さんが学生時代では私にとっては非常に印象の強い方ですね。戦後も虚子先生のそばに始終いらして、若者の「稽古会」などには必ずお出になってました。

 

〇先生が「大崎会」に出られるようになった時、虚子はいくつぐらいだったんですか?

*私が20歳ぐらいで行ってますから、70歳くらいかな。私と48歳違います。

 

〇その草樹会では先生が圧倒的にお若かったわけですか。

*うんまあ、若かったですねえ。別に東大には青邨先生の指導された「東大ホトトギス会」っていうのがありましてね、ここに学生が主に集まりました。多くはそちらに行って、「草樹会」に学生時代から長く行った人っていうのは私以外はきっといなかったと思います。

 

〇先生が「草樹会」に行かれた経緯というのは何かあったんですか?

*虚子先生のところにいて虚子門であったので、大学に入ったら「草樹会」にと思っていました。まあ暢気なものですよねえ、その昭和17年と言ったら大変な時代なんだけども、そこへどうしても行きたいと思って行ったんですから。

 

〇虚子はたいへん若かった深見先生に、「草樹会」において特別な指導ということをされたのですか?

*何もないですよね。そういうことは。だからねえ、その頃の私はそういう記録が非常に乏しいっていうか、明解に日記も書いていないし、正直言って覚えてないんですよね。どんな感じだったかって言うのを。

 

〇しかし「昭和俳句を読む」には色んなことが鮮明に書かれてますよね。

*それは調べて書いたの、その時は。もう忘れちゃってるよ。これはやっぱり意識的に「ホトトギス」を中心にどういう時代に生きたかっていうことを書くことで、ある意味でははっきりすると思って書きましたから。その辺の資料は全部読んで書いています。ただ自分のことを書いただけでは、「昭和の俳句史」にならないですから。あれは書くのが随分苦労しましたよ。大分消耗した(笑)。

 

 

新人らしからぬ、という虚子のことば

〇「東大ホトトギス会」のことについてお聞かせください。

*「東大ホトトギス会」はやっぱり俳誌「夏草」と強い関係があります。「草樹会」に入ったのと、「東大ホトトギス会」にどっちに先に入ったかちょっと記憶にないんですけれども、ほとんど同時に入って。学生がたくさんいて、今もずっと続いているんですね。

この会は、青邨先生指導の会でした。先生の選の披講のあと、必ず選評がありました。学生が幹事でしたが、東大に勤めている方とか、そういう先輩も来てはいましたね。そして、そこで私の生涯にとって大きな出会いがありました。それは古舘曹人さんと出会ったということです。

ちょうどふたつ上の兄貴でね、まあやっぱり私は「夏草」で、今はもちろん一番、斎藤夏風さんと親しくさせていただいていますけれども、やっぱりそういう「木曜会」というもので、親身に、皆に、私だけじゃなくて皆を育てたわけですけれども、私にとって古舘曹人という人は、「花鳥来」を出すことを勧めてくれたのもそうですし、やっぱり非常に大きな仲間であり先輩であると思います。

 

〇この「東大ホトトギス会」は大正11年虚子を指導者として、中田みづほ、誓子、秋櫻子、素十、青邨が結成したものですね。それが今まで続いているってことなんですね。

*色んな形で続いているわけですよね。岸本尚毅さんも、青邨先生がまだ指導されている頃にそこに来てるんじゃないかな?

 

〇戦後またすぐに「ホトトギス新人会」というのを結成していますけれども、その第一回から先生は出席されてますね。

*これは昭和21年に虚子先生が各地で「ホトトギス」の六百号記念大会をやりましてね。吉田の月江寺の会でその時に湯浅桃邑さんという人が私に、これから若い人で会を作ろうと思っていると誘われたんです。虚子先生の六女である章子さんのご主人・上野泰さんが戦争から帰ってきて俳句にたいへん興味を持たれているから、その人を中心とした会を、という相談だったと思います。それが小諸の「稽古会」という句会でした。その頃「ホトトギス」も戦後で紙がなくて、雑詠欄が三段組になったりしたんですよ。雑詠欄とかって今じゃどこも地名の下に俳号があるでしょ。東京の誰とか。あれねえ、当時は学校名が入ったんです。「慶大」とか。大学生はそういう風習があったんです。京都大学なら「京大」っていうように。だから会ったことが無くても、旅順大に桃邑さんがいたことや、慶大に清崎さんがいるとか、名前は知っていて親しみを持っていました。こうして、戦争が終って1年半も経たない昭和22年の1月に、丸ビルの「ホトトギス」発行所で、「新人会」は発足したのです。

 

〇1月5日とありますね。「ニクロム線剝き出しの電熱器でようやく暖を取り、外套のままの句会である。」って書いてありますね。

*そうだったんですね。国民服を着ていたと思いますしね。手持ちの貧しい弁当で、まあ、若かったんですね。そういうところで、句会を始めています。

 

〇この時は虚子も来られていたんですか?

*いえいえそれはねえ、あとで虚子に選んでもらったのです。「新人会」の句会は必ず十句でやってましたから。句会後にそれぞれが五句を選んでそれを作者がわからないように混ぜて、それを虚子のところに届けて選んでいただくのです。選は厳しかったですよ。大体少ないですよ、採られるのがね。で、それのやった一つの例が……ここにあるかな……。こういう風にして出すわけですよ。【写真】

それでこれは虚子選ですね。「新人会」の句会をした場所を入れて、虚子先生に届け、後で戻って来たものです。私の家とあるので、このときは成城にいたのかな。その頃は成城に疎開してましてね。そのおかげで家内とのご縁もあったんです。

 

〇成城に疎開ってありますよね。お家を人に貸されて、それで成城の方に行かれたという……これはどういうものなんですか?

*この「〇」と虚子選というものだけが虚子の字なんですね。

 

〇選は〇だけで、ほとんど何かそこにコメントがあるとか、そういうことはないわけですね。

*うん。「新人らしからず」なんていうのが句に付いた時があるけれど。そんなくらいですね。

 

〇「新人らしからず」って言うのは、誉め言葉なんですか? 誉められてはいないんですか?あまり練れたような句を作っちゃいけないということですか。

*作っちゃ駄目だと言うことです。他にも「不調」とかね。調子が悪いとかね。あんまりないでしょ? 「〇」の数が。大体1割5分くらいだった……1割くらいか。

 

〇先生はこの「新人会」で、「この会に加わることがなかったら私の人生は別のものだったと思う。」って書かれてますね。

*ええ、やっぱりねえ、「新人会」があったから「研究座談会」というものにも出られたんだと思いますしね。それからリーダーの上野泰さんは、虚子先生の娘婿ですから、私も虚子先生のそばに親しく行けたと思います。同時に真下ますじさんといって、虚子先生の長女の真砂子さんの娘婿もメンバーなんですよ。真下喜太郎さんは、真砂子さんのお嬢さんの婿で、実業家であり、文学者でしたが、戦後は、「ホトトギス」社に勤めてもおられました。虚子先生も泰さんも鎌倉にいましたし、ますじさんは、大仏様の近くの長谷に住んでいて、「新人会」は、そこでやる時が多かったですね。真砂子さんにはお世話になりました。

 

〇では丸ビルとは限ってなくて?

*丸ビルよりもよく鎌倉に行ったんですよ。そうすると会が終ると、じゃあこれから虚子庵へ行くから見ておいてもらうと、その日に見てもらった時も何回かあります。

でもその頃は会の後に虚子先生に会うことはありませんでした。誰かがまとめたものを持って行ってただけなんですよ。

 

 

虚子は多人数でやる句会をのぞまなかった

 

*私が虚子先生のところに行くようになったのは、昭和二十八年から「研究座談会」が始まってからですよね。もっぱら句を介しての師と弟子ということ。それと後は「稽古会」っていうのがありました。若者が集まった句会で、波多野爽波と関西の人、関東の「笹子会」の人たちが一緒になって行うんです。鎌倉の虚子庵とか、あとは山中湖、千葉の神野寺などで、虚子先生に、夏に3日間で4回の句会をしていただきました。虚子先生が亡くなる前の年まで続きましたよ。他には、「新人会」として昭和24年に「新人会夏行」というので3日間、句会を4回やっていただいたり。3回だったかな。あと、2、3回先生のお宅で句会をしていただいたことがあるくらいですね。

 

〇新人会というのは何人くらいだったんですか?

*十一人でした。それ以上には人を入れなかったのね。理由は色んな噂があるんだけどよくは分からない。入りたいという人もいたのよ。それをね、止めたわけですよね。後で気が付いたことなんですけど、昭和18年の戦争の厳しい時に、虚子先生が書かれた「俳句会のこと」という文章が「ホトトギス」の誌面に8回に渡って載るんですよ。それは拙著『折にふれて』に書いてありますけどね、それの元がこの文章なんです。そこに細かに書いてあってね、句会の人数は20人前後がいいと。締め切りは守ってしなければならないとか、それから、選もお互い平等でなければいけないとか、俳句の心構えというものが、実に丁寧にね、懇切に書いてあるんです。「花鳥来」をはじめる時にはそれを読みましたよ。それとこれはあとからお話しする「木曜会」のやり方を考えたんです。虚子は30人とかいるようなのは、「私の考えている俳句会ではない」と書いてありますよね。そして、200人、300人で互選をするなんていうのは、全く違うと。

 

〇そういう会は、虚子選のホトトギスの句会にはなかったんですか? あれだけ大人数がいたのに。

*記念大会なんかではやってますよね。でもそれはやむを得ずやるんで。定例はいくつも会がありますけれども、先生の会は必ず20人足らずですね。

 

〇ということはそういう考えを守られていたわけですね。

*もうそういうことだからねえ。そしてお互い平等な立場でするのが互選句会なんだと。で、誰かが一人指導者がましくなるということは好ましくないとまで書いてあるんですよ。それが句会っていうものだっていうことなんでしょう。「花鳥来」でも何回もこのようにしましょうよって言うんだけどね。なかなか浸透しませんがね。でもね、句会というものに対して、基本的な考えはやっぱりこういうものだと思いますよ。だってねえ、それは指導句会でやるというのは、これは止むを得ませんよね。それはいいけども、やっぱり本格的な句を作る場合としては人数は、10名くらいが一番いいのね。時間もたっぷりとれるし。お互いの選評もできますしね。

 

 

波多野爽波との対決稽古会

 

〇ほかの句会のことも伺いたいのですが、「新人会」とは別に波多野爽波率いる「春菜会」というのがありましたね。その辺もちょっと面白いなと思って、その辺のこともお話を伺えればと思うんですね。波多野爽波さんとはお会いになったことはありますか?

*学生の時分から会ってるんですよ。彼は出征したんだけど、その前に一緒にふたりだけで吟行したこともある。そしたらその句が「ホトトギス」三句入選の中に入っちゃったの。私なんか全然駄目だったのに、あの人はそのくらい早くから頭角を現してましたよね。

 

〇良きライバルと言った感じでしたか。

*いやライバルなんて、あんまりその頃はまだ意識してないですね。本格的に俳句をやろうと思ったのは「木曜会」に入ってからですから。それまではただ、「やってた」ようなものだから。あの人は意識的でしょう、最初からね。

学生時分、品川の海苔干場にふたりで吟行した時に、彼がぬかるみに入ってしまったのか、飛び上がるようになったのが、とても印象的でした。ぬかるみに気がつかない位、句作に夢中だったのでしょう。爽波さんには独特な感覚がありました。戦後には、いろいろ付き合いがあり、それは逐次お話します。

 

〇この「新人会」と波多野爽波率いる「春菜会」との東西対抗って言うのがあったって書かれてらっしゃいますが、こういうのってどうだったんですか? それなりに刺激しあうことになったんですか?

*うん、まあねえ、それはきっと桃邑さんが仲立ちをしたのかもしれないですねえ。「春菜会」の人たちは京都にいて虚子先生と離れてるから「新人会」が羨ましいんだろうしね。それで何かやろうということになったのです。25年からは「稽古会」っていうことで皆集まるようになりました。昭和27年から大峯あきらさんも来ているんだ。

 

〇この時の成績とかはどうだったんですか? こういうのはどうなんでしょう、東西どっちが?(笑)

*いやあ、東西対抗といっても勝ち負けじゃないから。人に資料を貸してしまってくわしいことはすぐには分らないんだけど、私はあまり勝ち負けを意識してなかったなあ。一つの催しみたいなもので、まあ刺激にはなったかもしれないけども。私にとってはそれはあんまり、自分の人生の上ではあまり印象はなくて。

 

〇爽波のところにこだわっちゃうんですけれどもね、波多野先生が昭和57年の12月号の「俳句」でその「俳句スポーツ説」というのを唱えられましたよね。爽波にとってはだいぶ後のことですが、先生とおふたりで吟行に行かれた頃とかって言うのは、そういうことは意識されていたという風ではなかったんですか。

*まあそういう実践はしたろうけども、スポーツって言うのを唱えたのは彼の晩年ですよね。でもホトトギスの人っていうのは、みんな多作多捨だけど、あの人はもう徹底的だもんね。むかしから考えていたかもしれないけどよく分からない。そんな話、しなかったもんね。

 

〇じゃあおふたりで吟行されても「俳句とは何か」みたいなことは……。

*そんな話はしなかった。まだ学生だからね。一緒に句を作っただけ。あの人の方が、出征前という事情もあったし、京極杞陽さんと同じ学習院ですからね。だから虚子先生との親しさっていうのはずっと彼の方が深いですよ。戦争に行く前はしょっちゅう先生のところに行って句会をしてますしね。それで「波多野爽波を送る句会」というのも虚子先生はわざわざしてるし。彼が帰ってきてからも京都で会があると、虚子先生は波多野爽波を呼びましたしね。それから少し時が経ってから、彼が新婚時代なんかも、私は京都へ行くと彼のところに遊びに行ったりしました。それは「青」を創刊した頃だから、昭和28年前後だと思いますけどね。よく会ってるんですよ、その頃。「青」にもしじゅう書きましたしね。「ホトトギス」の作家であった神田敏子っていう人のところを、二人だけで訪ねて行ったりしたこともあるしね。相当行き来はあったんですよ。

 

 

どういう場合に虚子選に入るか

 

〇その後の「玉藻」の勉強会について教えてください。

*ちょうど昭和24年の夏に「新人会」の「稽古会」というのを虚子先生がしてくださいましてね。ほとんど「新人会」だけで8月の3日間泊り込みで稽古をやったんですよ。その時、私が句会の結果をまとめました。そしてその記事を「新人会夏行」と題して「玉藻」に書いたのです。そこでどういう場合に虚子選に入るかっていうことを解析したりしてね。

そこに私が結論として書いてあるのは、以下のようなことです。「各人がよい題材を得て心が燃えた時又非常な努力をした時によい成績をあげたことがはっきりしている」とか「平常のよい俳句の味読と心の修養を欠いてはならない。平凡な表現に深い心を湛える句。それは授かる句である。それは遠い理想である。しかしそれへ向って私は例え遅々としてであろうと一歩一歩着実に歩を進めてゆくより仕方ない」と。若書きではあるけれど本当にそう思ったんですよ。そして私は、昭和25年に講演をさせられるわけよね。

 

〇そうでしたね。それも高浜虚子の前で。

*前で。「ホトトギス」には年中行事として、「句会と講演の会」というのがあって、若い人たちにもさせるわけですよ。普通は青邨先生とか、ロートルがするんですけど。これは虚子先生の考え。そういう企画は必ずやるのね。場所は、工業俱楽部会館。そこで講演内容を先生が必ず聞いて、それがよければ「ホトトギス」に載るわけですよ。その原稿を書くのにまあ、どれだけ毎日家に籠って……。学校にまだ行っていたはずなのにどうしてそんなことをしたのか分らないんだけど、どれほど本を読んだか分らないんですねえ。写生について原稿を書いて、しゃべりましたら、そのまま「ホトトギス」に載ったんですよ。その頃はまだ会社に勤めてなくて、大学の金森九郎教授の研究室にいたんだけど、肋膜炎をやっててね、身体を弱くしていたもんだから、虚子先生からも「お前は体でも大事にすればいい」とか言われたのを覚えていますよ。

 

〇写生についてどんなことを書かれたか覚えていますか? きっと、今先生の語られる写生の基礎になっているものじゃないんですか?

*まあそうかもしれない。その当時のいろんな写生論を中心にして書いてますね。一生懸命その時は書いてます。それで昭和二十四年の先生との句会で、そういうことが自分なりにわかってきたのでしょう。これがその時の写真。【写真2】

 

〇あ、ここにも湯浅桃邑とか清崎敏郎とか。ああ、すごい。これはどなたが書いたんですか?

*これは誰が書いたのかなあ。私が書いたのかな。「〇」は入選の点取表。だから虚子先生が一番か、立子先生が一番か、桃邑が一番か、となっているんですね。

 

〇深見先生も成績悪くはないじゃないですか。清崎先生や年尾先生もいるんだ。

*悪くはない。三回目は、ここに出ていなかったかもしれないけどね、三笠宮も来ているんですよ。虚子先生が「俳句会について」に書いているんですけれども、選句は、一回書いたのをまた書き直して出すようなことをするなって書いてあるの。必ずこういう風に、消すなり何なりして書いたまま披講者に提出しろと。無駄な時間がかかるのと、書きまちがいがあるからでしょうね。それがスムーズだって言うんです。

 

〇選はどうでした、先生?

*〈老人の日課のごとく走馬灯〉っていう虚子のをちゃんと採ってるんですよね。老人ってそこに先生しかいないもんね。採るわねえ。昔はつまんない句だと思ったけど、「老人の」はすごい句だと思う。「老人」なんて先生の句に違いないから採ったんだねえ。

 

〇(笑)それで採ったんだ。でも皆さん採られてる。桃邑さんも皆。

*桃邑さんて人は、これはまた虚子選を繰返し読んで勉強してました。先生のは後で選評がないですからね、それだからねえ、虚子先生の句を採るのは一番桃邑さんが採ったねえ。

 

〇皆さん筆で書かれているんですか?硯と筆を持って行くんですか? 墨汁じゃなくて。

*みんな筆よ。置いてあったね、先生のところにもあったし、句会場には誰かが持って行くし。大体ね、句会場にはその頃は皆用意してありましたよ、半紙とか。幹事が用意するのよね。何かこう小さい、あの時は……墨汁はなかったと思うなあ。

 

〇星野立子ってこの頃からいい句を作っていましたか?

*この頃が一番いいんじゃない、この頃が素敵だったしね。素敵ですよ、やっぱり。ひとめぼれしますよね。

 

 

素十のすごさ

 

*これは(と壁にかけられた短冊を指さしながら【写真3】)、素十の句はいい句だと思いますね。〈ふるさとを同じうしたる秋天下〉。これは昭和20何年かに、新潟に一回行ったことがあるんですよ。その時に素十さんに書いてもらったの。ふたつもらったの。

 

〇素十に新潟に会いに行ったんですか? 素十は先生より遥かに上ですよね?

*そりゃあ上ですよ。その時に一緒に句会をやっていただいて。会ったのはその時くらいでしょう。素十さんの句は、始めはこう、何て言うのかなあ……、清崎さんとか、桃邑さんは素十党なのよ。だけど私はその時はあんまり良く句のよさが分からなかったし、会った時もそんな愛想のいい人でもなかった。でも、最近はもう素十の句は何ともすごいと思いますよね。うん、まあやっぱり天才ですよね。あれだけの作家って言うのはめったに出ないですよね。虚子先生はやっぱり、素十と立子が好きだったし。戦後は素十と立子と杞陽ですよね。

この短冊を見ていると、大きな世界があるのね。〈ふるさとを同じうしたる秋天下〉っていうのはね。字もいいしねえ。もう一つは春の句だった。蝶の句。〈俳諧の心に蝶の美しく〉いい句よね。

〇〈俳諧の心に蝶の美しく〉こんな句なんて……。こういう句を作るってやっぱりすごいですね。

*ねー! 何つうこっちゃろうと思って。すごいねえ。ただの写生と違う。

 

〇俳句って面白いですね。その、何十年前に会った時はそう思わなくても、今になって作品を通してそれがいい句だって。さっきの虚子の句の「老人は」の句と同じように。

*うん、そういうもんじゃないかしら。〈人生は陳腐なるかな走馬灯〉ねえ。言われてみりゃ、そうだけどねえ。若かったら分かんない。この短冊は結婚式の時に虚子先生に。〈より添ひて静かなるかな杜若〉【写真4】。これは上野泰さんが結婚式の時に持ってきてくださったのね。『五百句』に入ってます。これは特別に作って下さった句ではないんですけどね。

こっちは青邨さんからもらった、有名な〈みちのくの淋代の浜若布寄す〉。【写真5】

 

 

虚子は選はしても選評はせず……

 

*虚子先生は昭和26年から「ホトトギス」の雑詠選を辞めて、「玉藻」に力を尽すようになって。その後の若者の「稽古会」なんかはあくまで、立子を立ててやっていましたよね。それでその「稽古会」なんかの時も席順は、立子の場所だけを決めて、他はくじ引きで決めるとか、要するになるべく虚子が中心にならないような配慮をしてました。遊び心もあったんでしょうけど。

 

〇この「新人会」においても、句も選の数は平等であったわけですか? 虚子も立子も他の方も。

*それはね、ある時から予選も読んで採ってほしいということになって、「私だけ、選が多くなったのは心苦しい」と、「俳句会について」で虚子は書いていて。やっぱり少し多いんですよ。

 

〇「新人会」だから、新人としては指導してもらうということもありますね。

*そう。それはどの会も平等でしたよね。ある句数を多く採ったというだけであって。

 

〇さっきも少し触れましたが、この会でも選をするというのと一緒に選評というのもされたわけですか?

*全然しない。虚子の句会っていうのは選で終り。どの句会も選評はなし。結果、採られたか採られなかったかということだけでした。

そのことを別に不思議にも思わなかったしねえ。で、それを湯浅桃邑などは、もういつまでもその選句を繰り返し繰り返し読んだ。虚子が何を採るかっていうのを自分で勉強してましたね。虚子の句会はね、必ず兼題があるんですよ。それで、例えば山中湖へ行ってみんなで……まあその頃は東西で30人近く集まりましたけどね。で、必ず兼題を出すんですよ。ああいう所へ行ったら写生の句がいくらでもできそうでしょ?

でも必ず兼題を出されましたね。普通の会も必ず兼題が出てたわけ。「草樹会」なんかは、あれ私もはっきり言い切れないんだけれども、兼題だけだったという時もあったのかもしれないですよね。それでそのために虚子は、会が始まる前の日には必ず仕事部屋から出て、自宅の廊下とかどこかでその兼題を考えていたということを、身近にいる人が言ってましたからね。兼題も必ず季題が題であって、新聞の紙面の一字を取ってって言うようなのはなかった。それもひとつのやり方でしょうけど、あくまで季題が兼題。だから季題から発想するわけですね。季題が中心になって、色んな状況を思い浮かべて作るわけですから。あくまで季題中心ですよね。

兼題詠をやってると、今度外に行って見たときでも、その季題に集中が行くということも言えるし、季題をしっかり見てないと、後で兼題を作れないですよね。

やっぱり現場が中心、写生は見て作るのが中心だけども、私は虚子があれだけ兼題を重視したっていうことは、花鳥諷詠っていうのが季題なんだと。で、季題発想ということを修練しとけって言うことだと思うのね。写生論でも花や鳥と心が一つになるって言うことを盛んに言うでしょ。それは季題を中心にしろっていうことだしね。でまあ、『折にふれて』にもいくつか書きましたけども、色々な場面を次々に浮べて句作するから、思わぬことが出てくるんですよね。〈大寒や見舞ひに行けば死んでをり〉とかね。ああいう不断の発想も出るだろうし。

 

〇あれも兼題なんですか?

*兼題ですよ。作ったときの事実じゃないですよね。普通の人はね、写生写生って言うと、その時に見舞いに行ったら死んでたんだっていう句を作ったって言うけど、それはまったく違うんですね。

虚子の名句にも相当兼題の句がありますよ。まあなかなかそれがねえ、兼題かどうか分からないというところが虚子流なのね。その境地へ行かなきゃいかんと思って、私もまあ心がけてはいるんだけれど。これは推測なんだけど、〈大根を水くしやくしやにして洗ふ〉なんてのは、あれは兼題ですよ。何故かって言うと会場が丸の内俱楽部って言うところでやってるし、それからその2、3日前から「句日記」に大根の句が並んでるからね。見てはいるんだけども、兼題で作ったと思うのね。

 

〇でも全くの空想じゃないわけですよね。

*空想じゃないですよ。見たものを思い起こしていることだと思いますし、もっと飛躍する時もあるし、何とも言えないですよね。だけど、見てないと駄目よね。兼題作ってるとね、普段見てないと駄目だってことをつくづくと思いますよ。

まあ今度の『菫濃く』収録の〈底紅や娘なけれど孫娘〉のようなのは兼題じゃないと作らないですよね。

〇あえてお孫さんが来たからと言ってそれで句を作るということはない。

*この時は木槿の兼題が出ていたから作ったと思いますねえ。それから〈スプーンも曇るばかりや夏料理〉なんてのは、夏料理って言う兼題が出ていたから作った。

〇それもいい句ですよね。

 

 

生き方としての花鳥諷詠・客観写生

 

〇二十七年の「玉藻」の「研究座談会」についてお聞きします。これに虚子は随分力を注いだみたいですね。

*これは虚子先生が「玉藻」に力を入れてから、今井千鶴子さんが編集の手伝いに行ってて、編集をするなら「寝ても覚めても編集のことを考えなさい」と虚子は言ったそうです。

そして今井さんが「ホトトギスの俳句を理論的に考える座談会」という案を提出して採用され、虚子先生と相談して人を決めたんですね。それで上野泰さんと清崎敏郎さんと、湯浅桃邑さん、私、それから藤松遊子さんの五人に決まって、一年間連載したんです。大体1回の座談会で3回分やりますからね。勝手に色々しゃべらせて。それを見ていて虚子先生が加わるんです。29年の正月から虚子庵に来るようにということで、そこから3ヶ月に一度、のべ21日やってるわけですね、作家論から写生論から。

 

〇句を取り上げる人選はこれ、虚子がされたんですか?

*それは我々がやったんですよ。

 

〇先生も随分色々と質問をされていらっしゃいますよね。

*のべ21日間やったわけ。10時30頃行って、午前中1回分やって、昼飯を食べてから午後に2回分をやって。だいたい4時頃になってこっちが疲れると、虚子先生が「もうこれで終わりですか」なんて言われた時もあったし。虚子は気力があるんです。その座談会の時の写真がこれなんですけどね。虚子先生の仕事部屋で「俳小屋」と言ってました。【写真】

 

〇先生は真っ向から虚子に質問を投げ掛けられていて、虚子がそれに対して答えている。若い人と話すことを虚子は好んで、積極的に関わられたわけですか?

*若い人相手だからしゃべったのか。やっぱり虚子先生って人は誰にも平等だし、本当の気持ちで話した時には先生もそれに応えられたしね。亡くなるのが85ですけれども、闘志は持っておられたから。普段は短いけれども、肝心なところになると長くしゃべってますよね。「客観写生」っていうところ。どういうのが客観写生かってことがここに書いてあるわけですよね。要するに初めから心を出すようなものでは、俳句では成功しないと。自分が言っているのはあくまでそれを基本にするんだと。そしてそこから出てくる主観は構わないって言うことを言ってるわけですよね。こういうのをね、繰り返し繰り返し言われてるわけね。だからやっぱり、客観写生の技がしっかりしている人の句は安心だと。だけど、それをしないで主観を出そうとすると必ず失敗してると。そういうことを繰り返し言っておられますよね。『折にふれて』にも書いていますけれども。だんだん主観と対象がひとつになっていく。ですから、おのずと客観描写をすれば自分を描くことになるという。その写生論をどれだけ私、繰り返し繰り返し読んでいるか。で、それを実行しているわけですよ。それからもう一つ、虚子先生の『句日記』を見ると、もう最晩年まで普通の写生句を作っていますからね。誰でもできるような、「そこに何があった」というような句も、ちょっとでも見所があれば残しています。その写生句が推敲によって変わっていくんですよ。たとえば〈爛々と昼の星見え菌生え〉の句にしても、最初の句は〈昼の星見えしよりこの茸生え〉で、目の前のものを写生している。ちょうどその時に松茸を持ってきた人がいて、それで〈松茸の荷がつきし程もらひけり〉という句ができてその句と一緒に〈昼の星見えしよりこの茸生え〉ができる。「この茸生え」って言うのは目の前のものを見て作っているわけだから。要するに客観写生ですよね。主観は飛んでいるけども、目の前のものを見て作っているわけですよね。そこから、「爛々と昼の星見え」というように飛躍して、推敲されるわけです。あくまで嘱目というか、目の前のものから発想して作る。だから、「この茸生え」っていうのはやっぱり写生ですよね。そういう風に客観写生と推敲の両方から詰めて行くんです。虚子先生の言う「客観写生」と言うものさえすれば、後はどんな主観句が出てもいいんです。こういう方法で作っていると思ってもみなかった句ができたりする。それを、私は〝授かる〟と言うのね。やっぱり虚子先生が説かれた「客観写生」というものを、皆が理解できなくて、ただデッサンみたいなものだけを「客観写生」だというのは間違いですよ。それは繰り返し繰り返し虚子先生が言っているんだけども、なかなかそれが読み取れないっていうことでしょうねえ。

 

〇先生の中で、虚子の唱えた「花鳥諷詠・客観写生」というひとつの俳句理念について、すごく大きく揺らいだ時っていうのはありますか?

*今でも揺らいでますよ。やっぱり技と表現においては虚子先生のおかげでかなりできたかもしれないけども、生き方にならなかったからねえ。あるがままって言うか、人生を受け止めて色んな状態になってもそれを受け止めて、それを静かに客観的に眺めて詠むということが「花鳥諷詠・客観写生」であり、極楽の文学ということが分かっていればこんなに私の体が弱らなかったと思うし。人生の生き方じゃないとね。「花鳥諷詠・客観写生」は。

だから俳句は上手くなくても、そういう人生観になれば、「客観写生」は難しいかもしれないけども、「花鳥諷詠」の精神は、明らかに継いでいると思いますね。

 

〇一つの生き方としての「花鳥諷詠」。

*生き方ですよね。最晩年の『虚子俳話』ではみんなそういうことを多く言ってますね。

だからやっぱり、大峯あきらさんなどは、ひとつの生き方としての「花鳥諷詠」っていうものを摑まえてるけど、私はなかなかいかないねえ。

家内はね、私のことを、家では全然駄目だって言って。そう、暮らしがないのに皆に暮らしがあるように批評してもらってという感じです。何にもしないんだもの、家にいて。出されたものは天から降ってくるように家内から出されて食べて、それで俳句だけ作ってるんだもの。

 

〇奥さまからご覧になられた先生というのはどういう方でいらっしゃいますか?

(深見龍子)まあ、そういう風にしてきちゃいましたのでね(笑)。俳句一筋じゃないんですか? でも皆様に支えていただけているから本当に幸せでしょう。九十二まで現役でいられるなんて、こんな幸せなことないですよ?

*皆さんに支えていただいてねえ。おかげでここまで来たわけですから。

 

 

徹底した連衆句会である――「木曜会」と「花鳥来」

 

〇お家では俳句を作ってらっしゃるんですか?

*何もしてないね。この頃、腰が痛いもんだから、一日あんまり長く座ってられないですよね。

 

〇そうなのですか。先生は大体書斎で俳句を作られるんですか?

*まあ普通は周りを歩いて作っていたんですね。この『菫濃く』の頃は、ほとんど周りを歩いて毎日20句以上作っていた時もあります。毎日そのくらい作ってますよね。

 

〇その中から厳選したものが『菫濃く』なのですね。

*うん、厳選というのはそこがその「木曜会」と「花鳥来」にかかわってくるんです。「木曜会」って言うのは、今も中心になっている斎藤夏風さんの話だと、昭和37年の5月から始まってるんですけれど、私の入ったのは昭和52年なんですよ。

ちょうどその頃古舘曹人さんが、会社もまあ大体辞める頃になって、俳句に本格的に力を入れ始めたんです。俳人協会の理事になったし、俳句文学館の建設にも貢献して、それで俳句っていうものの専門家になろうとしていたんですよね。

そうして始まったのが連衆句会。彼の場合は句会は10人がいい、そして忌憚ない意見を言うこと。句会をやった後に名前をちゃんと名乗って、名前が分かった者の句について合評するわけですね。それをずっと徹底的にやったわけです。自分の俳句がいいので喜ぶだけじゃなくて、自分以外でも、その座からいい句が生れた時は皆で喜ぶと。そういう徹底した「連衆句会」をやってたんです。だから虚子の言う「互選句会」をもっと徹底してますよね。

錚々たる人がいました。古舘さん、斎藤夏風さん、黒田杏子さん、それから間もなく岸本尚毅さんも入ってくるし。私もそういう会に入ったことで、徹底的に句を作ることになりました。

「木曜会」に私が入った52年というと私は55歳の時で、ちょうど最初の職場を辞めた時期です。次の職場に行ったのがその後5年ですからね。その職場を辞めてからは月2回、その頃はまだ「花鳥来」もないし、色んな句会で作ったり、それから吟行した句から10句を選んで、その会に出してました。ですから月に20句ですよね。選ぶのは出句数の倍くらい選んではいましたね。もっと少ない人もいたし、多い人もいた。

そういうことで、句について徹底的に後で討論するわけね。おおよそ1時間くらい時間をかけてやりました。皆がそれぞれ自立していったわけですよ。

この「木曜会」と虚子の句会は、基本的には共通してますよね。違いは批評するということをやる。私は「花鳥来」でも同じことをやっています。ちょうど『菫濃く』の頃の、私の「木曜会」に出した句は全部これに書いてあるわけです。【写真】

ちょうどこの時期がね、二〇〇六年だから八年前、大体この句帳の二冊分くらいが『菫濃く』になっているんです。これは「木曜会」の句を整理したものなんです。

 

〇先生がご自身で「木曜会」が終るたびに整理を……。先生の句をどなたが選んだかっていうことまで書いてあるわけですね。

*書いてありますよ。普通の句帳はもうこんなので汚くてどうにもならんのだけど。

〇でも句帳も撮らせてください、先生。【写真7】

*そう言われるだろうと思った。(笑)

こちらの束は「木曜会」で私が選んだ方の句なんです。別にこれは『菫濃く』の時代でなくて、こないだの「花鳥来」の句会の清記用紙です。「木曜会」と同じようにこういう風に清記用紙に名前を書いて、そしてこれの高点句から誰かが司会して合評してくれます。

皆の意見を聞いて、私の句も批評してもらう。そういう風に繋がっているわけです。

 

〇山田閏子さんが深見先生は本当に私たちの意見もよく耳を傾けられる、そこが素晴らしいと仰ってました。

*素晴らしいかどうかは知らないけど、その方が得じゃないの? しっかりした選句観を持った人が言うんだからね。やっぱりね、当たりますよ。違う時もあるかもしれないけども。まあ七、八割は当たってると思う。

 

〇でもその、心おきなく信頼出来る句のお仲間がいるということは、すごく幸せですよね。

*それが財産ですね。そういう方針を意識して「花鳥来」を作ったわけですから。だから人数も少なくしてあるし。……虚子先生は句会が好きで、何かっていうとすぐ句会をなさっていました。作品を作る上においてはやっぱり虚子先生も句会っていうのが非常にいい機会になるっていうことに思っていらしたんでしょうね。作句と同時に選句を信頼できるという、両方備えた人たちとの「連衆句会」を持つっていうことは、やっぱり自分の俳句を磨いていく上では大事な場所ですね。ただ最後に句集にする時はそれはあくまで自分の責任でやります。

句集をまとめるというのは、やはり句集を出す人の責任ですし、ただその時に、「木曜会」と「花鳥来」の句会で選ばれているというのは非常に支えになっています。それから今度の句集でも「木曜会」に出した句はかなり入れてますけど、「花鳥来」の例会で出来た句ももちろん入れています。例えば〈人生の輝いてゐる夏帽子〉なんかの句は、例会で出来てますしね。

 

〇この「夏帽子」の句は兼題詠なんですか?

*いやいや、嘱目吟です。うちの例会では兼題はとうとうやらなかったんですね。兼題詠をやろうと思ったんだけども、どうも上手くタイミングが合わないうちにずるずるっと来ちゃって……。それはちょっと失敗したかなあと思ってます。写生句はあくまで現場立ちが基なのですが、よほど集中しないと平板になる可能性があるんです。他にも句会を私が元気なうちは11くらい持ってました。そのうちの「木曜会」は別とすると、5つか6つの句会は必ず兼題を出してましたし、皆は兼題以外で作っていても私の場合は兼題以外作らなかったわけです。「兼題その他」としてありますけども、私の場合は兼題がある場合は兼題ばかりで作った。ですからやっぱりそういう意味で兼題の句が『菫濃く』に入ったってことは何かの意味はあるんじゃないかと思います。あくまで〝季題〟の〝兼題〟ですから、おのずと季題で思い巡らすことになりますね。そうすると色んな思わぬものが出てきますからね。だから私は、句会を大事にすること、それから嘱目で足を使って歩くということ、兼題を作るということ。この三つを大事にすることが自分の作り方だったというふうに思っているんです。

 

 

少年のままに

〇先生の少年時代のことをちょっとお聞かせください。どんな少年だったかとか(笑)。ああ、可愛い!【写真】

*何の苦労もしないお坊ちゃんですよ。

〇そうだったんですか。お父様を尊敬されていたのですね。何か思い出すことってありますか? 具体的な風景というか。

*まあしかし、幸せに暮してたね。あんまり苦労もしないで。スポーツとかもしなかったし。本も読まなかったねえ。何してたんだろう。一人っ子だしねえ。

(龍子)兄がいたんですよ。それが、本当に早くに2歳で亡くなってしまったんですね。主人がね、三月の生まれでしょ。兄が亡くなったのが二月ですから、義母はそれで産気づいちゃったっていうくらい、すごくショックだったらしいんです。当時の疫痢と聞いています。今だったら点滴すれば亡くなることはないと思いますけど、あの頃は点滴がないから。だから大事にされたんですよ。

 

〇じゃあ、生まれてから先生はずーっとこの方、大事にされ続けてきましたね。

*そうなんですねえ(笑)。この六十年は家内に保護されて。

(龍子)少年のままよね。私はそれまで割と自由に育っていたから、あんまり真面目なんで困っちゃった(笑)。

*いやあ、あなたの若い時の話を聞くとまったく私と違って自由だよね。

 

〇先生、お目が高かったですね。ご自身の目を誉めてあげないといけません(笑)。

*ああ、いい女性を選びましたね(笑)。

(龍子)私も病気しましたけど、その後主人が賞をいただくやら本当に幸せなことで、ええ。

*『菫濃く』の間なんかは本当に俳句だけやってればよかったですからね。今でもそうだけど(笑)。

 

〇ところで先生の中で「許せないこと」ってありますか?結構それでその人を語りますので。鷹揚でいらっしゃる方でもやっぱり許せないことってあると思うんですよね。

*許せないことねえ……何だろうね。難しい質問を考えたねえ。あんまりそんなにかっとなるってことでもないけど、何だろうねえ。ちょっと即答できないねえ。

〇奥さまは分かりますか? ご覧になっていて。

(龍子)主人が許せないこと? そうですねえ……。怒らない人ですけれど、やっぱり不誠実とかそういうことはすごく嫌がりますよね。だからまあ、人間って色んな面を持っているから、しょうがないんじゃないかなと思うけれど、そういうことに対してはちょっと……厳しいかしら(笑)。私はうまく日常は生活の智恵でごまかしてますからね。本当に周囲の方に支えられています。

 

波多野爽波との交流

〇ところで、ふらんす堂で出させていただいた奥さまのエッセイ(甲野未央著『ある日箱の中から』俳誌「屋根」に連載)の中の、「S氏のお砂糖」という文章がありますね。S氏からいただいたお砂糖を先生だけがお使いになっていたという。

(龍子)それは波多野爽波さんのことを書いたんです。爽波さんは時々お電話くださってね。主人がいなかったりすると「元気ですか?」っておっしゃってね。私とよくお話したことを覚えています。私、お目にかかったことがないんですよ。

*あの人、電話魔だもんね。私がいるときは俳句の話をしてました。あの人は、「虚子の俳句でいいのは人事句ばっかりだ」って言うんですよ、私にね。

あと印象的なのは、「そんなに君に晩年の虚子が花鳥諷詠っていうことを言ったか」と言ったことは今でも覚えているし、やっぱりある意味じゃ、爽波の句は「花鳥諷詠」ではあるけども、普通言う「花鳥諷詠」と違いますよね。

 

〇そうすると爽波さんは、虚子はそれほど「花鳥諷詠」のことを言わなかったとおっしゃるわけですか?

*「花鳥諷詠」というよりも、写生ということなんでしょうね、あの人は。

写生は虚子から受けたわけで、多作多捨にしてもスポーツ説にしても、まあ虚子からあれだけ伝授されたという形ですからね。我々の年代で、「花鳥諷詠」って言うものの本当の精神というものを弁えたのは清崎敏郎さんじゃないかと思うんだけども、ただ晩年がね、あの方も弱られたし、特にご長男を亡くされた後、きつかっただろうと思うし、なかなか難しいですねえ。老いを受け入れ、病を受け入れね、そして従容と俳句を詠んでいくっていうのはね。そういう意味じゃ、綾部仁喜さんとか、村越化石さんとかね、素晴らしいと思うわねえ。ああいう風な境地になるのはね。虚子って方は大変努力家で、あれだけの仕事をされたから、ある意味では倒れてから一週間で意識を戻さずに亡くなってますからね。死に方としては理想的な死に方ですよね。

 

 

俳句から遠ざかったことも

 

〇先生はいっとき俳句から遠ざかりましたよね。

それはお仕事がお忙しくなって、そっちを専心なさるということだったんですか? 違う要因がおありになられたんですか?

*そうね。やっぱり、主に仕事がらみとか色々な事情でなかなか俳句に集中できなかったしね。

〇全然もう、句は作られなかったんですか?

*まあ、その間に、たまには出ましたよ、句会にね。

それと、「研究座談会」っていうのが、虚子先生が亡くなっても、立子先生の元気な間はずーっと続いてましてね。それでその後は高木晴子さんのところでやってたんで、それは清崎さんも出てきていたんで、3ヶ月にいっぺんくらいは、出来るだけ出てはいましたね。句会では、湯浅桃邑さんが非常によく面倒を見てくれて、連絡をくれましたんでね。俳句から遠ざかるまではもう俳句に夢中になってたからねえ。それで仕事の方も上手く行かなかったのかもしれないし。「研究座談会」の時には会社なんか休んで行っちゃってるしねえ。

 

〇上手くバランスを取ってというやり方もあるんですけど。

*できないねえ。不器用なんです。不器用な人ですよ。

 

 

俳句は読み手あっての文学である

 

〇ずいぶんいろいろとお話しを伺いました。それでは、最後に俳句を作る若い人たちに一言くださいませ。

*そうですねえ、俳句ってのは単純化して、そして余韻で人に伝えるわけですからね。ですから読み手がいないと成り立たない文学とも言えるわけです。虚子の話に、色んな当時の社会性俳句とか、そして草田男の俳句なども難解と言ったけれども、一方我々の俳句も、あまりにも単純化され、平明で、難解かもしれないと。そういう話もありました。

例えば京極杞陽さんの〈西行忌なりけり昼の酒すこし〉って言うような句、こういう句なども、ある人間の深さの入った俳句という風に、解せるかどうかって言うのは、作り手だけでは出来ないわけで。それを選びそれを解釈すると言う能力がないと出来ないということになりますね。読み手の文学っていうことを考えた時には、ただ一人だけで勝手に作ってそして、ある目立つものがあっても、やっぱり種が切れてしまいますよ。

青邨先生も言ってますけれども、俳句はあくまで「私の文学」ということです。その「私」が社会の中で生きて成長してゆく。その私という人間が俳句にあらわれて、はじめて価値がある、そうでなければこんな年(九十歳)になるまで続けてやりませんよということを青邨先生も言われてますしね。その人間があらわれる、というのも読み手が分からなくては成立しません。

 

〇やっぱりそういう意味で句会がすごく大切であるという。

*うん。やっぱり俳句がある限り句会って言うものは続くんじゃないですか? 句会なしでの俳句もあるかもしれないけども。それから私などもこの頃句会に出られなくなりましたからねえ、ほとんど。そうなると、句会がなければ出来ないというのはおかしいけども、やっぱりその句会に投句するとか、人にそれを鑑賞してもらって俳句ははじめて成立すると思います。

だからやっぱり俳句の作者は、読み手でもなきゃならんわけですよね。

 

〇どういう読み手、句友を持つかが大事かもしれませんね。よき読み手を得るということですね。

*自分もやっぱりよき読み手じゃなきゃならないわけでしょうし。

虚子先生の句、虚子選の句、また青邨先生の句ってのは、いつまで経っても本当の深いところは分からない句はあるかもしれないけどね。でもやっぱりそういう名句をたくさん覚えているっていうことは大事だし、それからこれは飯島晴子さんから直接ではないけれども聞いたことです。俳句は、言葉で生まれるってことね。

そういうことは、それまで私はあんまり意識しなかったのですが。飯島さんは〝言葉は偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ち上る〟という意味で、「言葉で生れる」と言われたのです。私とは違うかもしれませんが、俳句が言葉で生れるということを常に意識していることは大事なことですよ。言葉の組合せで俳句はできるわけですから、私の場合、その意識がなくなった時に、偶然に、平明なよい俳句は生れるわけで、私のは他力、飯島さんのは自力ということかもしれません。

言葉ってものにはやっぱり古くからの歴史があるわけですから、季題以外でもあるひとつの言葉で力を持つ場合がありますからねえ。また組合せでも、言葉の歴史を考えた上で新しいわけで、そういう歴史を考えないで、今の流行だけでの言葉ってのはやっぱり、弱いですよね。そういう風に思いますよ。

 

〇確かにそうかもしれませんね。今日は長い時間にわたってありがとうございました。

 

(2014年10月16日 於所沢下安松の*見けん二先生宅 聞き手・yamaoka kimiko 写真・各務あゆみ)

 

 

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