大牧広先生のお別れの会2019.5.22
師・大牧広は平成元年に「港」を創刊して、平成がおわる4月まで頑張ってこられました。そういう意味では平成そのものを「港」とともに生きてこられたと言うことができると思います。その間六つの賞をいただきました。最後の賞は俳壇でもっとも栄誉ある蛇笏賞を受賞されました。それは大きな意味をもっているのではないかと思います。大牧先生が俳句の領域を拡大したのではないか、社会性俳句を再興したのではないか、ということです。大牧先生は、常に庶民の視点で一生活者として俳味も叙情も含めて平成を俳句ひとすじだけで生きてこられたと思っております。わたしたちはたいへん誇りに思っております。
昨年2月に金子兜太先生がなくなり、いま大牧先生とお別れしなくてはならないのはまことに残念です。おふたりの共通している点、それは反骨精神であると思います。平成21年に大牧先生が現代俳句協会賞を受賞されたとき、兜太先生が「大牧広のような俳人をどうしてもっと早く評価しなかったか」というようなことを言われたことがあります。協会として何をしてるんだ、というお叱りをいただきました。兜太先生がそういう言い方をするというのはちょっと珍しいことです。今日ここに来る間にそんなことを何度も思い浮かべながら来ました。大牧先生は、戦後の社会性俳句の荒波を受けたお一人であると私は思います。作品がそのことを証明しています。そのスタンスが揺るがないということが見事であると思います。この度の句集『朝の森』などはその頂点に立つ句集であろうと思っております。日常の生活のなかで、一市井人としての反骨精神、それは兜太先生が共感するところものではないかと。
正論が反骨となる冬桜 広
戦後をすごして、そして今生きている、そこから生まれるもの、大牧先生の作品を貫いているものはこの反骨精神だと思います。
大牧さんは、昭和45年能村登四郎が「沖」を創刊してまもなく入会し、めきめきと力を発揮された方です。わたしもほぼ同時期に俳句を始め、いろんな句会でご一緒しました。そしていろいろと刺激を受けました。かつては俳人協会に所属されていて大牧さんは自註句集をかなり早い時期に出されています。いまそれをなつかしく読んでいます。今年の桜が見事に花を咲かせた頃、句集『朝の森』が蛇笏賞を受賞されたことを知りました。蛇笏賞といえば今から34年前の第19回蛇笏賞は能村登四郎の受賞でした。今回のうれしい知らせを仏壇の父に報告をしました。父も天上から喜んでいたと思います。授賞式に大牧広さんの晴れ姿を見ることができないのは残念です。昭和45年に「沖」に入会された2年後に大牧さんは、第2回「沖」新人賞を鈴木節子さんとともに受賞しました。このころわたしは俳句を始めたばかりで、あたらしい句会に入会したのですが、大牧広さんをはじめ、北村仁子さん、鈴木鷹夫さん、鈴木節子さんなど錚々たるメンバーのなかで勉強いたしました。そして大牧広さんは、第1句集『父寂び』を刊行されました。その句集のなかでよく知っている俳句は、
噴水の内側の水怠けをりこんなにもさびしいと知る立泳ぎラストシーンならこの町この枯木
この序文で登四郎は、「寂びの姿を通してさまざまな喜怒哀楽を描くことを心に傾けている。正直すぎる人間の生き様をつきはなして描いている。私小説というより映画のワンカットに近い」と述べています。大牧さんも登四郎山脈の大きな一つの山をなす存在でありました。結社の流儀に与するのではなく、独自の個性を俳句に生かした作家であったと思います。
「港」に入会してからあしかけ24年になります。信州に住んでいるため東京での句会はなかなか参加できず、お会いするのは新年会や勉強会といったイベントの時だけでした。しかし欠席投句ではあっても先生の選を受け続けたことで俳人として成長させていただいたと心から感謝しております。時に作句の壁につきあたり、どちらにすすめばいいのかわからなくなる時もありましたが、思いもかけず先生から特選をいただいたりすると、こっちへ行けばいいんだ間違いないと自信がわいてきました。わたしが「港」に入会したひとつに人事句が苦手だったため大牧先生の俳句から学ぼうと考えたことがあります。角川書店の「俳句」に原稿を書くにあたり、あらためて先生の俳句に目を通しました。戦争や震災、原発といった時事俳句は特に第6句集『冬の駅』から急増しています。広俳句が目指そうとした地平が見えてきたような気がしました。そしてその反骨にますます磨きがかかってきたように感じました。表現方法は違ってていても、庶民の視点から社会性俳句を再興、という点において先生と私の目指す方向は一致したのではないかと信じております。
師と呼べる人もうなくて走り梅雨 仲 寒蝉
遺族を代表して御礼のご挨拶を申し上げます。父は昨年夏頃に血液の血小板がなくなっていってしまうという難病にかかりましたが、これはステロイドという薬を投与することによって押さえられるのですが、その副作用に苦しめられておりました。そして12月になりまして、違う体の支障が現れ、緊急入院、検査の結果、膵臓がんと診断をされました。わたしたち家族はこの病名に絶望的な思いがいたしましたが、父はあきらめることなく小さな事にも希望を見いだし、少しでも多く食べ、筋力がこれ以上弱くならないようにと家の中ではありましたが運動をして、生きることに懸命でした。そしてこの生きるという意志を支えたものがやはり俳句だったと思います。机にむかう父の後ろ姿は鬼気迫るものがあり、わたしたち家族は声をかけるのがためらわれることがありました。そのようななか、3月28日に蛇笏賞受賞というご連絡をいただき、父とわたしたちは「これ夢じゃないよねえ、ほんとだよね」と互いに言って喜びあいました。俳句人生の最後にこのような大きな賞をいただけたことを喜び皆で泣きました。今姉と、父の遺品を整理しておりますが、原稿や新聞の切り抜きや皆様から頂戴したお手紙や写真やその他もろもろ膨大なものがすべてそれぞれに一言書き添えられて閉じられておりました。これを見ておりますと、父は一日たりともどんなに小さなこともおろそかにせず生きてきたのだなあと思わずにいられません。わたしたちはこの父の生き方を手本に一日一日を大切に世界へアンテナをのばし生きていこうと思います。