2019年度俳人協会賞授与式2020.12.17

 

今日は東京・新宿の京王プラザホテルにて、2019年度の俳人協会賞の授与式がおこなわれた。

新型コロナウイルスの勢いとどまらぬ厳しい状況下であるので、おおはばな人数制限によるものであった。

 

 

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出席者は約40名ほど。

 

 

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会場風景。

 

 

 

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司会は片山由美子氏。

 

 

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ビデオ撮影による大串章俳人協会会長のご挨拶。

 

受賞は到達ではなくて、出発である」とのご挨拶。

 

 

俳人協会賞は以下のとおり。

 

○第59回俳人協会賞    小川軽舟句集『朝晩』(ふらんす堂)

 

○第43回俳人協会新人賞  沼尾将之句集『鮫色』(ふらんす堂)

 

○第43回俳人協会新人賞  藤本夕衣句集『遠くの声』(ふらんす堂)

 

○第34回俳人協会評論賞  角谷昌子著『俳句の水脈を求めてー平成に逝った俳人たちー』(角川文化振興財団)

 

本賞については、今瀬剛一選考委員長の祝辞を小島健氏が代読。

新人賞については、栗田やすし選考委員長の祝辞を辻美奈子氏が代読。
評論賞については、選考委員長の本井英氏が祝辞をのべた。

 

 

受賞された皆さま。

 

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左より、小川軽舟、沼尾将之、藤本夕衣、角谷昌子の各氏。

 

 

 

 

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閉会のご挨拶をする能村研三俳人協会理事長。

 

俳人協会賞を受賞された小川軽舟さん。

 

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今回句集をまとめるにあたって「サラリーマン俳句」ということを押し出してみようかなと思って纏めました。ちょうど9年前になりますか、東日本大震災があってその尊い日常というものがあっという間に失われるということを目の当たりにして、なんでもない平凡な日常というものの尊さというものを俳句で書いていきたいと思いました。その震災の一年後に私自身生活環境に大きな変化がありました。「出向」を命じられて関西の鉄道会社に行くことになり、銀行員から単身赴任で第二の職場へ行くということで大きな生活環境の変化があったわけです。日常を詠うという以上、この現実を詠わずしてどうなるものかということでサラリーマンとしての生き方を詠んでいこうという風に思ったのでした。サラリーマンの生活は俗なものですらか俳句もともすれば俗なものになりがちなんですが、あえてそれもおそれず作ったわけです。その点もふくめて今回受賞させていただいたということを大変大きな励ましと受け取っています。
せっかくの機会をいただいたので、わたしが尊敬する「サラリーマン俳句」の先達を二人ご紹介したいと思います。
一人目は日野草城であります。日野草城は大学をでたあと損害保険会社に入ります。エリート社員ですね。ちょうど昭和のはじめごろ、近代的なビルがたちはじめサラリーマンが新しい風俗として生まれてくるそんなタイミングだったと思います。その時期に日野草城は大変熱心に俳句をつくっています。好きな句では、「手をとめて春を惜しめりタイピスト」。「懐にボーナスありて談笑す」。「タイピスト」「ボーナス」という言葉は草城がはじめて俳句につかった言葉ではないかと。草城は新興俳句の騎手でありその後無季俳句に行ってしまうわけです。無季俳句となってもサラリーマンの俳句はあって「新鮮な夕刊を買ふ風の中」というのがあります。これもいい句だと思います。無季俳句をつくったことによって「ホトトギス」を破門され、やがて戦争の時代にはいり草城も身体をこわしサラリーマン俳句はそこでとだえてしまう。
戦後は労働の句は詠まれましたけど、ホワイトカラーはあまり詠まれないんですね。そのホワイトカラーをふたたび表舞台に出したのが、草間時彦さん。「冬薔薇や賞与劣りし一詩人」サラリーマン俳句の金字塔でありましてわたしにとっても「サラリーマン俳句」をつくるうえで彼方にあって導いてくれる星座のような句です。でも草間さんも必ずしもサラリーマン俳句を成就できたかというと、まあ、そうともいえないというところがありまして、たとえば「秋鯖や上司罵るために酔ふ」これも有名な句なんですけれど、「冬薔薇」の句にくらべると大分俗だなあと。だんだん草間さんのサラリーマン俳句はサラリーマン川柳に近づいてくるところがありまして、多分草間さんもそれに気がついて嫌になってしまってあんまり書かなくなってしまうんですね。そうしてまたサラリーマン俳句というのは長い冬の時代になったというのが、わたしの簡単なサラリーマン俳句の歴史なんですけれども、まあ、そいういう中でわたしの作品というものがこれもまたあだ花に終わるのか、あるいはなにか今の時代を書き留めたものになるのか、これはわたし次第だと思うのですが、今回立派な賞をいただいたこと励みに、大串会長が言ったようにこれを「出発点」として、と言ってもわたしのサラリーマンはあと数年しか残ってないのですけれどそれをまっとうして行きたいとおもっております。

 

 

俳人協会新人賞を受賞された沼尾将之さん。

 

 

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俳句をはじめてから12年になります。美術大学を卒業してから埼玉県の中学校で美術の先生をして子どもたちに絵をおしえておりました。、もともと絵は好きなのですが行き詰まりを感じておりまして、子どもたちに表現することの喜びを味あわせてやりたいなどと思いながら教えていたのですが、わたし自身の製作ができずにまた子どもたちにも上手く教えられず悩んでおりました。その学校に赤井摩弥子さんという方がおられました。その方との出会いがわたしの人生を大きく変えました。その赤井先生は国語の先生だったのですが、子どもたちに俳句をとにかく作らせる人だったのです。いろんな行事があるたびに子どもたちに俳句を作らせる、教職員も巻きこんでということでわたしも作らされたのです。子どもたちは目をキラキラさせて作っていまいした。子どもたちはどんどん作って、いろんなところで俳句の賞をとったりして俳句の名門校になったのです。わたしも楽しくなって作るようになりました。そこで俳句にはまってしまったのでした。そこから赤井先生が師事されていた「橘」の故松本旭先生、翠先生、そして現主宰の佐怒賀直美先生に出会うことができました。それ以来12年お世話になっております。美術の教師をしていましたが、どうも向いていなのではと思い、人の力になれるようような仕事をしたいと思い介護の仕事を志しました。そして特別養護老人ホームで働きはじめました。俳句は続けていたのですが、仕事が大変なこともあって句が荒れてきました。自分の負の感情を吐きだすような句が多くなってそれはそれでいいとも思っていたのですが。そのときは俳句を通して自分とは何かということを学んだのではないかと思います。そうこうしているうちに俳句がたまってきまして、今回の句集のお話をいただき、まがりなりにも出したということであると思います。
句集ができあがって、一番渡したかったのが赤井摩弥子さんなのですが、急逝されましてしまいました。ちょうど二年前の12月19日なのですが、句集を直接お渡しをしよう思っていた矢先のことでしたので本当にその時は落ち込んでしまいました。俳句をつづけてきて俳句が自分の一部のようになっているということ、そういう生き方をふくめて赤井先生に教わったのだと思っています。赤井先生の分まで俳句をつくっていただいたご恩に報いるのがわたしのできることなのかなと思っています。

 

沼尾さんは、さらに今後の目標として、イタリアの画家・ジョルジョ・モランディ(1890~1964)について語り、何度も同じモチーフで絵を描き続けた彼の手法を学ぶことを通して「新しいことをするよりも身近なもので世界をつくれるのだ」という思いをもち「俳句もまた同じ事の繰り返しなのかもしれませんが、それをつぶさにやっていくことで新しい世界が生まれるのでないかと。表現のよすがにしていきたい。」と語られたのだった。絵を描く方らしい興味深いご挨拶だった。

 

 

 

おなじく俳人協会新人賞の藤本夕衣さん。

 

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句集『遠くの声』は、3人の師、田中裕明先生、綾部仁喜先生、大峯あきら先生の導きがあってできた句集であるとおもっております。 
田中裕明先生には、最初の句会でお会いしたときに「素直につくってみてください」と声をかけていただきました。それ以来、「素直につくるとはどういうこと、そのなかで「詩情とは何か」と考えることはわたしの俳句の原点となっています。
綾部仁喜先生には、自分の人生で俳句を詠むということがどういうことなのか、という問いを残してくださいました。わたしが病室を訪れたとき、研究や子育てで手一杯になっているわたしに、「人生にはその時その時がある。その時を大事にして俳句を詠みつづけたらいい」とおっしゃってくださいました。境涯を受け入れて俳句を詠みつづけるということは、先生ご自身が病床で声を失われて身をもって示しつづけてくださったことでもありました。
大峯あきら先生には、季節のうちに生きるということがどういうことなのか、そういう問いを残していただきました。季語というものが俳句にあるということは単なる約束ごとでなくて、それを詠むことにおいて季節のリズムのうちに生かされていること、そのことを実感し、いま生きているということに深く結びつく、そこで俳句を詠むということを大事にしていきたいと思っております。
今回句集を編むにあたって一番まよったことは「子どもを詠んだ句をどうするか」ということでした。綾部先生、大峯あきら先生の言葉をいただきながら、まよったあげく子どもを詠んだ句を思い切っていれることにしました。今回、そこでひとつ気づいたことがあります。娘が二人いるのですが、娘たちとわたしの親子の関係が安定してあってその間に俳句があるのではなく、俳句がわたしたち親子の関係をあらたに築いてくれることです。仕事をしながらの育児は毎日たたかいのようでもあります。子どもたちもまた、季節のリズウムのなかに生きて与えられた命としてここにあるということ、それはわたし自身もまたそうです。同じように季節のなかを生かされてともにあるということ、子どもを俳句に詠むことで気づき、親子とはまた違う関係で子どもと向きあうことができ、俳句に救われるような13年を句集に収めることができたと思います。
3人の先生が残してくださった問いを胸に俳句とともにある自分の人生をこの受賞を糧に歩んでまいりたいとを思います。

 

 

あとで夕衣さんは「大事なことを言い忘れてしまった」とおっしゃっていたが、思いのこもったご挨拶だった。藤本美和子さんが、会場にいてくださったのが支えだったとも。
このような状況でなければ、森賀まりさん、対中いずみさんもお祝いにかけつけてこられただろうにと思ったのだった

 

俳人協会評論賞の角谷昌子さん。

 

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今回の評論集は角川の「俳句」に一年間十二名を掲載させていただいたもの、その後「未来図」で三年間に十二名を掲載して24名、それから田中裕明さんをいれ出版作業にかかり、その後金子兜太さんが亡くなりましたので、そこの加筆して全部で26名で出版することになりました。執筆してから本になるまで5年間かかったことになります。その後、鍵和田柚子主宰の怪我、難病の発病、約2年間の闘病ののちの急逝、「未来図」の終刊、執筆をはじめてから今にいたるまで7年間が経過してしまいました。今回執筆にあたり、26人の俳人の方々と向かいあってきたその日々その人生を思います。わたしが評論に書きたいのは作品を評価するだけでなくて、その方がその時代にどのように生きてどのような境涯に中から作品を詠みだしてきたのか、それがとても重要なことなのです。7年間で両親を介護し、父をおくり、夫の母をおくり、そして今度は自分の主宰をおくったという失うものばかりでしたけれど、俳句は自分自身を励まし、そして人を励ます、そういう力があるということを身にしみて感じております。
ここに鍵和田主宰の全句集が出来上がりましたが、今回解題を担当し校正や編集をしている間に主宰の作品を第1句集から全部読みこむことになりました。鴫立庵の庵主として「風雅の誠をせめる」と言挙げしていたのですが、風雅の誠のみならずたとえば「竜天に登るわたしは靴を履く」「胡桃割るとほき尾の有りやなし」など非常に飄々とした庶民的な俳句を詠んでいて、主宰が目指したものは、「風雅の誠」だけではなく世俗的な大衆性をも晩年においては目指していたのだということを今回、全句集を編集してみて分かりました。芸術性と大衆性、その両方を大事にしてすすんでいきたいと思っております。なにがあっも前をむいて後ろを振り向かなかった鍵和田主宰の姿を思いながら自然を大切にして参りたいと思います。

 

美しい和服姿で、『鍵和田柚子全句集』を胸に抱きながらのご挨拶となった。

 

 

ご受賞された皆さま、おめでとうございます。

心よりお祝いを申し上げます。

 

 

 

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